「悪」と「正義」という見立ての危険性
- sfp2000
- 2014年11月16日
- 読了時間: 1分
朝日新聞夕刊「サラエボ100年をたどって」の第3シリーズも第5回となりました。
今日は、セルビア人に視点を当ててボスニア内戦を見つめています。
今日の見出しの「セルビア人は『悪』だったのか」が気になります。よく、「悪」とか「正義」とかいう言葉で、内戦などへの介入について議論が世界中で沸き起こりますが、この見立ての危険性をボスニア内戦はよく教えてくれます。
ぼくが考えるボスニア内戦の「悪」、それは、間違いなく自らの欲望のために人々の財産、命、名誉、尊厳を奪った人々です。だから、セルビア人とか、クロアチア人とか、ボシュニャック人とか全く関係ないのです。
民族に関係なく、この3年半の時間の中で、多くの人々の幸せを奪った者たちが「悪」なのです。それは、民族主義とか、宗教とか、文化とか、歴史とか、そういうものではないのです。
だから、この「悪」の見立てを間違えると、大きな過ちを後の歴史を誤った方向へと導いていきます。

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